今朝は洛南で憧れの小原前専任幹事の講話だったのですが、7:30目標で大文字山の麓までバイク移動だったので断念しました。ものすごく良いお話だったと聞いてますます残念。
そして現地に着くと、大学に不足の必要備品を取りに行くことになり、今度は葛野大路通まで走ることに…このタイムロス、講話我慢したのに・゚・(ノД`)・゚・北白川から、京都縦断やん!
でも、普段の生活圏を離れて初秋の京都市内を走っていると、この40年くらいの記憶が風景に明瞭に絡んでいることに驚きました。
高校生の頃の初デートとか、バイトしていたマクドとか、初めての中型免許で走った山中越えとか、夜勤明けに豪華朝食を食べにホテルに行ったこととか、赤ちゃん訪問したおうちとか、講義に行った教室の窓とか…もういない大切な友人と過ごした空間も。
当時のわたしがその場所からこちらを見ている気がして、まだまだ未熟者な自分を恥ずかしく思いました(^^;
さて、来週からまた看護学生の実習に付き合うのですが、今日はそのオリエンテーションで病院に出向いたのでした。コロナ禍の間、学内でロールプレイ実習しか出来なかったのですが、人数制限があるとはいえ本当にありがたいです。
助産の学生も、一件もお産を取れないままプロとして就職するという事態に、学校も職場も、当然本人が一番、大変な思いをされたことでしょう。第8波とやらがやってくるときには、どうか季節性インフルエンザと同じ扱いになっていますように…
わたしが過去の亡霊との再会から戻ると、学生さんたちは担当新生児ちゃんのお世話をされていました。隣は老健施設。同じ敷地に、これから100年を生きる新生児ちゃんと、次の世への旅立ちを控えたご老人がいる。少しきゅんとしました。
わたしは老いた人が好きです。お祖母ちゃんっ子だったせいかも知れません。保健センターで健康長寿事業を手伝っていた頃も、訪問診療のクリニックに勉強に行ってた頃も、うちに光をはらんだような透明感と、遥か遠くを見るような視線をとても美しいと感じました。神の領域に近づいておられると思えて。
京都で過ごした40年の日々を走馬灯のように思い出せた日。そして、まだこの舞台は続いているということ。深い気付きをありがとうございます!
人生神劇。
帰りに少し山を上がってねこのお墓に寄ってきました。Celloの名前の彫が済んだと連絡を貰っていたので、確認したくて。指でなぞりながら、この子たちと過ごした日々も、消えたりしていないんだなと確認。
いつでも一緒に過ごしたその時に戻れる。これも永遠のいのちだと言えるのかも知れません。