わたしが助産師になりたての30年前でも、新生児医療の現場では「こっちは助けたつもりでも…」という声がありました。面会に来なくなるママ。退院後、即施設に行く赤ちゃん。救われた命が生きる人生は、優しいものばかりではありませんでした。
あれから救命できる小さな命はますます増えて、重心のお子さんを育てる家族も増えている。
今日、twitterに流れてきた、日本は新生児死亡率が世界トップレベルであることを誇れるのか、その後の親の介護の苦労について、新生児救命に関わる医師のつぶやきを読みました。
それに対し、同意のコメントと同時に、この考え方が断じて許せないという意見もいくつかあって。
そうですね…匿名の相談でも、胎児ちゃんに障害があるなら中絶したい、と言われるとかなり寂しくなります。健康な子しか要らないの?もし、ぴかぴかに健康で生まれても、病気や事故で一瞬のうちに介護のいる状態になるかも知れないのに…と反論したくなります。
でもこれは、苦しみを背負って生きるであろうそのお子さんへの愛、人生を制限されるであろう他の家族への愛からの言葉でもあるのだと思えば、深い感情とともに共感できる思いでもあります。
もっと生きる意志を尊重して障害を負った人や高齢者を守れるような、心豊かで他者の幸せを願う社会はまだまだ遠くにあります。
相手を打ち負かすような価値観の対立は激化して、ヴィーガン、コロナワクチン、マスク、愛子天皇(^^;
名指しで罵倒しあうほどに相手を許せなくなっている狭量な社会です。
昔、生まれた子どもを畑に一度捨てる風習のある地域があったと教科書で学びました。桑畑の桑子、貧しい農村で、生き残った子だけが育ててもらえる悲しい習慣です。
今、人の生存に自然淘汰なんて表現をすることは許されませんが、実際には同じくらい、心は貧しくなってしまっているのかも知れません。
でも、愛の反対は無関心。討論するくらいの気力があるうちは、どちらもまだまだ余裕があるんだなと感じます。本当に国が困窮すれば、その情熱は枯渇して、桑子や姥捨て山に黙々と従うしかありません。
やはり、大切な家族なら、どんな姿でも生きていて欲しいと願う「心」が満たされるように、福祉はより細やかに家族を助けて欲しい。今は、全く不足しています。
それが小さな赤ちゃんでも、動けなくなった高齢者でも。家族が疲労困憊することは、彼らの望むところではないはずです。
いのちの価値は誰にも測れない。
新芽が育ち花が咲いて枯れるように、あっという間にこの人生は終わってしまうから、自分に出来ることを丁寧にひとつだけ、出来たらまた、次に出来ることをやる。
イーロン・マスクも、500gで生まれたあの子も、この永遠の時間軸の中では、等しく一瞬の閃きのような人生です。自分のスペックを十分に活かして、満足できる人生を過ごせたら、それが最高の幸せだとわたしは思うのです。
人の思いやりの心そのものが社会資源になるような、助け合える関係のなかで生きて行けたらいいな…
万象我師。
まずは、自分がやってみようと思いました!