今までの平凡な人生でも、不思議すぎて理解の外側にあるものが沢山ありました。大人に聞いてもまともに取り合ってくれないのです。
そのうち、そのような存在から目をそらすようになると、不思議なことが起こりにくくなりました。子どもにしか見えないトトロのように。
その世界への感受性には高低があり、高すぎる人は現実の世界に適応できなくなるように思えて、少し警戒心や怖さを持っていたのも本当です。
それでも、その世界には真実があること、それを知りたい欲求が常にあって、月参りのお坊さんのお話や教会学校の聖書物語や寓話やアニメで描かれる擬人化されたモノや動物のストーリーに夢中になりました。
信仰を持っている人たちは、見えない世界への感受性を鍛えるためのトレーニングをしているように思えて、看護師になった年にプロテスタントの洗礼を受けました。
以降30年、キリスト教の信者であると公言してきました。この教義に心が救われたことは一度や二度ではありません。
わたしの思考や願いは見えない世界に軸が置かれるようになりましたが、絶対神への信仰はわたしの父祖の信仰を否定するものでした。
あらゆる宗教は、自分たち選民以外の信仰を否定します。
この長く生きても100年足らずの短い期間で、そのような対立に時間を使うのは正しいのか。日本に生まれたなら、この国の自然のなかで生まれ成長した神の存在を否定してはいけないのではないか。
とても可愛がって育ててくれた祖母が亡くなった時、彼女が教えてくれた様々の宗教的な物語が、わたしが探してきた見えない世界への入り口だったことを認めることになりました。とても身近に、探し物は見つかったのです。
わたしは今も聖書を読みますし、賛美歌も大好きです。キリスト教国に生まれ、両親と教会に行き、夫と食前の祈りを捧げる。来世があるならそのような環境に生まれて、見えない世界を大切にしながら善い人間として生きるのは素晴らしいと思います。
でも、それはもうわたしではないのです。リセットもセーブも出来ないRPGで、幸せな人生に感謝してほほ笑むことをGoalにして、やり直せない選択に迷うプレーヤー。この人生はこの一回きりです。
何を信仰するとか、何教徒だとか、そんな小さいことはどうでもいいと今は思えるようになりました。
大事なのは、自分が幸せに生きることで、周囲の大切な人たちも幸せになること。もちろん見える世界でも、この国が豊かになり、誰もが自分らしく満足できる人生を歩めるように協働する。
倫理の学びは、宗教(なんらかの強制や思想への対立が必ずある)じゃないのに、見えない世界をほんとうに大切だと思う大人が集まってるのが本当に面白くて尊い^^そして、彼らは大真面目に「日本創生」への願いを謳う人々です。
大自然の摂理に抗わないこと、これが最も原始的な神への畏怖だったのではないでしょうか。
日本は自然災害の国、身を寄せ合って助け合いながら生きてきた農耕民族。
日本の神話では、天照大御神をはじめ全国の神様が出雲に集まって平和のための神議りをします。
イスラエルの民を独立させるための闘いの神、罪への激しい神罰、そして民の罪の身代わりに惨い十字架刑を受けてくださる神の子への信仰とは、ずいぶん違っていますね。
その環境に必要な姿をとられて、見えない世界は、神として顕現化するのでしょう。信仰は人にとって大切なことだと思いますが、教祖の富を顕現化する、詐欺カルトにはご用心です(^^;
さて、倫理では見えない世界を大切にするために各自いろいろと実践するのですが、今日はこんな実践を思いつきました^^
自分のもとになる見えない世界に思いを馳せるため、行動する前に数秒の静寂の時間を持ち、人・もの・環境に対して感謝の言葉を申し上げる!目標一日10回以上!!
それで、パソコンやらトイレのフタやらボールペンやらに「ありがとう♪」と言いまくってたら、なぜか皆さんからすごく良い気のレスポンスがある気がして(*´∀`*)良い気分で一日過ごせました。
小さい頃の寓話、おばあちゃんのちょっと良い話。きっとこんな風に見えない世界とわたしをつないでくれていたのだと確信した次第です。
全一統体。
「日々、あらゆる面で、わたしはますます良くなってゆく」byエミール・クーエ
潜在意識も、まさに見えない世界。ユングの共同無意識も。もっと理解を深めたいです。