今日はオンラインで花野井SVの講義をいただきました。七つの原理を解き明かしてくださるシリーズで、今日は「全個皆完」と「存在」でした。
これこそ、ただそうなるのであって…つねに完全である。ただそうである。
この言葉はゴードン博士も同じことを言われていました。親が子どもを信じることが難しい理由。それは、彼らが、なれるものになることを否定するからです。
そのまま・あるがままを肯定的に受け取る生き方が出来れば、凄く生きるのが楽になりそう。同じものを見ても人は違った印象を持つし、それで幸せになれる人は本当に幸せな人だから。
「これで良い」から「これが良い」になれば、さらに大肯定の人生。
純情(すなお)であることが目標ですが、この世界への全肯定がむちゃくちゃに難しくて。いつも何かをディスカウントしている自分がいます。しかし、事象はつねに完全。人や物に不足を感じるのは、彼らのかけがえのなさ、唯一絶対の値打ちを軽んじているからです。
静と動の両方の面をもっている「存在」。もともとの姿は静であり、誰かの役に立つときに動となります。これでふと、今週バイクに起こったことを思いました。
火曜、もっと大切にしなきゃな、とふと思い、信号待ちの間、タオルで手の届く範囲を拭いてあげました。
翌日の水曜、基礎講座の後、駐輪場でエンジンがかからなくなりました。置いて帰った木曜、バイク工場まで持っていくとプラグもバッテリーも何も問題ないとのこと。そしてふつうにセルでもキックでもかかるのです。その夜、役員会でまた倫理会館へ。その帰り、また同じ現象が起こり、エンジンがかかりません。
どこも悪くないなら少し一緒に歩こう。押して道路端でもう一度セルを回すとかかりました。ありがとう、というと元気に走り出して、今日金曜は雨が降って寒い日だったのに何の問題もなくかかりました。
なんだか火曜にタオルで拭いたときにバイクに魂が入ったみたいな気がしました。大切にされたいのが伝わってくるようで、もっともっと、深い愛、行動できる愛を持てるようになりたいと思いました。
子どもの頃、平凡すぎてからかわれる自分の名前が大嫌いでしたが、あるとき漢字の辞典で意味を調べたところ、「淑」は「清らかに湛える水」という意味だと知り、それからはお気に入りの名前になりました。
静は水の如し。そして動は前進であり、役に立つために働く姿。この世でたった一つの存在である、一人一人が大切にされる世界を守りたいと思います。
明朗愛和!
まずは朗らかの実践から^^